2021年からガンダム年になっている!ヲタ歴43年がリアタイで何度も読んだ小説「閃光のハサウェイ」待望の映画化、ネタにされつつもいい話と言われていた「ククルス・ドアンの島」意外な映画化、そして「水星の魔女」テレビ放映のトレンド席巻!
いったいどんな裏の力が(テレビ業界、政治家、企業の重役・・・、みんなガンダム世代では?)、と疑いたくなるくらい盛り上がっています!まさか43年たってもガンダム三昧な世の中になるとは、ノストラダムスでも予言できませんでした。
ちなみに筆者の海外での体験談ですが、イギリスやフランスなどではイギリス人・フランス人・中国人・韓国人などに「ガンダム」というと、驚き・喜び・熱く語るの3拍子で反応されます(多くは男性ですが)。中には「今度日本に観光へ行く予定だ。理由?もちろん等身大ガンダムを見る為さ!」と語った人もいるぐらい熱いです!
さて、今回は今や日本文化を代表する一つともなった世界の「ガンダム」がどのような時系列でアニメ放送されていたのか?「歴史は勝者が書く」と言われているようにガンダムの人気は不動となっていますが、実は危うい状態、「ガラスのロープを目隠しで渡る~♪」ようなことがあったという裏話も紹介していきたいと思います。
ガンダム信者には当然の話ですが改めて思い出してください。知らない方は必見です!
「機動戦士ガンダム」(1979年)
ガンダム制作前の背景
ガンダムと言えば、御大・富野由悠季様の代表作です。
この当時は、「ロボットアニメは玩具メーカーのおもちゃの宣伝。スポンサーは玩具メーカーだから内容は商品が売れるようにすること」という制約の中、ロボットアニメは作られていました。
時は1977年、サンライズ初のテレビアニメシリーズ「無敵超人ザンボット3」が玩具メーカー「クローバー」のスポンサーで放送された。ロボットアニメ戦国時代(マジンガーZ、コンバトラーVなどなど)の中、作品は暗い内容ながら人気があった。しかし、玩具に関しては「スーパーカーブーム」や「ラジコンブーム」の影響で苦しい市場ながらもそれなり売れた。
翌、1978年、「無敵鋼人ダイターン3」が放映。内容は前作と違いコミカル路線。ロボットは合体はしないが3段変形するという玩具向けのものでした。
この2作品の成功を経て、遂にあの「機動戦士ガンダム」が制作されることになります。
フリーダムファイター・ガンボーイ
この頃、アニメ界には一つの革命的旋風が吹き荒れていた。「アニメは子供のもの」を根底から覆すような事件である。アニメは大体小学生が見て、中高生になると卒業し、大人が見てたら恥ずかしいものでした。しかし、「宇宙戦艦ヤマト」の大ヒットがアニメの年齢層を大幅に上げたのです。
この社会現象を受けて、次回作は年齢層が高め、中高生以上をターゲットにすることになりました。舞台は宇宙、主人公は「十五少年漂流記」のように少年少女、主人公は宇宙空母に乗り、宇宙戦闘機で異星人と戦う・・・という設定だったそうです。
ここで、スポンサーである「クローバー」から「空母は売れないからロボットを出して」と強い要請がありました。巨大ロボットを出すと企画の雰囲気が壊れるので、宇宙服の延長上のようなパワードスーツということで、「モビルスーツ(MS)」が考え出されてました(後年、ガンダムがリアルロボットと呼ばれるようになった理由)。
表題の仮タイトル「フリーダムファイター・ガンボーイ」から「ガンボット」(ロボット過ぎて却下)、「ガンボイ」(映画「コンボイ」から)と次々にアイデアが出てきて消えました。最終的には当時流行語にもなった「う~ん、マンダム」と仮タイトルの「フリーダム」のダムとかけて、『ガンダム』という名前になったそうです。
「機動戦士ガンダム」(1979年)放映開始
1979年、サンライズが満を持っして放送開始をした「機動戦士ガンダム」は視聴率的には大惨敗でした。「話が難しすぎる・・・」、「ロボットじゃないの?」、「主人公、暗いし、すぐいじけるし、スカッとしない」など大不評でした。
スポンサーはザク以外にものもっと「やられメカ」を出せと要望し、制作側は苦肉の策で、新型の量産機であるグフやドム、試作モビルアーマー(MA)としてザクレロやアッザムなど、リアルな世界観を壊さないようにそれっぽい理由で投入します(これが、後年ジオン公国は戦時下においても戦局打開の為、新型開発に余念が無かったと後付けで評価されることに)。それと商品化の為に、Gアーマーというガンダム支援パーツの登場も要請されます。
しかし、それでも視聴率は低迷し、スポンサーは登場人物にまで口を挟みます。結果、「シャアという陰気なキャラクターがいけない」(失礼な!)と言われ、やむを得ず「ガルマ様を守れなかった理由で左遷された」というそれっぽい理由で登場させなくしました。
このシャアの失脚が、今まで静かだった視聴者、特に中高生のファンの眠れる魂に火をつける結果となりました。なんとこのファン達がサンライズに大量の抗議の手紙を送ったのです!これにより後日、シャアはドズル中将には左遷されたが、キシリア少将が呼び戻したという形でジャブロー攻防戦の前に帰ってきました(これもまた、ジオン公国内の政治的な思惑、血縁間での派閥争いを描くこととなり、ますますガンダムの世界観に深みを与える結果となりました)。
こういった中、やはり視聴率も売り上げも挽回できず、遂にスポンサーは当初の全52話(1クール13話で4クール放送予定)を短縮し、3クールで打ち切りにすると打診しました。サンライズ側は、最後の1クール分13話は4話に無理やりまとめることで、全43話をもって放送は終了することに決まりました(ちなみに余談ですが、筆者は全52話が掲載された全5巻の設定資料も読破しておりますので、本当はどうなったかも知っています)。
ところが皮肉なもので、打ち切りが決定した直後に、まさかの人気が急上昇。予定していたアムロが最終回で亡くなる予定を止め、再放送・続編への期待を持つことになりました(もし予定通りだったら今のガンダム文化は無かったことでしょう)。
ガンダムの人気に火をつけたのは誰?
当時はもちろん、SNSどころかインターネットも無く、たまにマイコン(マイコンピューター、パソコンのこと)があるような時代でした。情報共有や発信が簡単にできない時代、どのようにして「ガンダム」というものを広めていったのでしょうか?
『アニメック』(ラポート出版)
ラポートの「趣味を押し出した方が売れる」という判断から、アニメ雑誌「アニメック」では注目されていなかった「機動戦士ガンダム」」を誌面の核に据えました(他のアニメ雑誌は「銀河鉄道999」をメインで扱っていた)。富野さんやスタッフのインタビューも加えることで、正にガンダム支援雑誌のように貢献することとなりました。
バンダイのプラモデル
今やバンダイと言えば、ガンプラと連想されるぐらいの関係ですが最初からというわけでは無かったのです。
元々、サンライズはスポンサーであるクローバーにプラモデルの商品化をお願いしました。回答は「売れないキャラクターの商品を増やしてもしょうがない」という非情なものでした。
そこで、アオシマに打診するも、打ち切りが決まっていたガンダムのプラモ化は断れました。
最終的には、「宇宙戦艦ヤマト」の模型を製作していた、バンダイに打診し長い交渉の末、1979年末にバンダイが商品化の権利を取得しました。
放送終了半年後、バンダイのプラモデルは爆発的に売れました!ちなみに、筆者もいくつか買いました。ガンダム1/144は300円、Gアーマーセットは1000円でしたね。このガンダムのプラモデル(ガンプラ)はガンダム人気を広げる役目も担ったのです。
ファン達
これは言うまでもないですね!当時は小学生の間では、女子は全く興味が無く、男子でも意見が分かれるところでした。元来、アニメというのは放送当時に「今度のカッコいいよな!おもろいな!」というもので、何年も語り継ぐものでは無かったのです。
それでも再放送されることで、今度は視聴率も本放送(関東地区5.3%、名古屋地区9.1%)が嘘のように、再放送では関東地区17.9%、名古屋地区では25.7%(最高視聴率29.1%)という驚異の数字を叩き出しました。
これは当時の背景としては、
- 放送開始当初はガンダムの世界が断片的でよく分からなかったが回が進むことに全体像が見えてきた。
- おもしろいなってなった矢先に放送が終わってしまった。
- ガンプラが流行り買うようになると、どんな話だったか気になるようになる。
そのタイミングでの再放送となれば見ますよね?(筆者も見ました!)
この浸透が遅かったのは今のようにSNSやネットが無い社会だった為、現在人には理解しにくいですが、ガンダムの情報を得る方法が、月刊のアニメ雑誌を買うか、ガンプラの説明を読むか、再放送を待つ、以外になかったのです。
映画「機動戦士ガンダム」(1981~82年)
テレビ放送が不人気で打ち切られたアニメがまさかの映画化!これは異例中の異例ですよね?もちろん、雑誌・ガンプラ・ファン(再放送の力)が押し上げて人気で、テレビ放映の内容を再編して、映画3部作として公開されることになりました。
ちなみに全43話なので、どうしてもカットせざるを得ない話がでてきますね。第15話「ククルス・ドアンの島」も話の流れ上、なくても困らない為、躊躇なくカットされています。当時も誰も不平不満の言いませんでした。それがまさか、2022年に単独映画化されるとは・・・。
当時の見出しは、『ポスト・ヤマトはガンダムだ』(1980年10月2日の日刊スポーツ)で映画化のスクープが報じられました。
ちなみに映画3部作は以下のようなタイトルで公開されました。
- 1981年3月14日 映画:機動戦士ガンダム
- 1981年7月11日 映画:機動戦士ガンダム Ⅱ 哀・戦士編
- 1982年3月13日 映画:機動戦士ガンダム Ⅲ めぐりあい宇宙編
1作目がヒットしなければ、続編製作はしないという条件だったが無事にクリア。そして2作目は主題歌「哀 戦士」(井上大輔)がヒット(オリコン週間シングルチャート9位)し、現在もカラオケの定番曲として歌われ続けています。
3作目は大ヒットをおさめ(その年のアニメ映画配給収入1位)、ガンダムの人気を揺るがないものとしました。
3作目のラストでは、シャアがグワジンに乗り他の艦艇と共に、ジオンの小惑星基地「アクシズ」(アステロイドベルトにある)へと逃亡します(一説ではジオン残存兵力の約50%)。
これが、次の作品への布石となるわけです(続編があるよと)。
次回、「機動戦士Zガンダム」の大問題や制作経緯の裏話をご紹介致します。君は刻の涙を見る・・・。