ダチョウ俱楽部の上島竜兵さんとタレントの有吉弘行が非常に仲良しなのは有名ですが、二人の間には様々なエピソードがあります。
改めてそれらのエピソードを振り返ってみたいと思います。
有吉の収入ゼロ地獄時代を支えた恩人
有吉はいきなり売れ、そして消えていった・・・
有吉弘行といえば、1994年4月に森脇和成さんとお笑いコンビ「猿岩石」を結成しました。
1995年には太田プロダクションのライブで初舞台を踏み、「新品舞台」(フジテレビ)という深夜番組に、後のボキャブラ世代のネプチューン・海砂利水魚(くりーむしちゅー)・アンジャッシュ・TKOなどと共に出演していました。
このころからネタの実力も評価があり、このままいけば他のお笑いコンビ・トリオと共に着実にスターダムをのし上がっていたと言われていました。
しかしながら、1996年4月に突然運命が変わります。当時大人気だった「進め!電波少年」の新企画「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」にだまされて(拉致られて)強引に出演が決まりました。
リアタイで見ていましたが当初は「誰やこいつら?」とか「どうなんねん、これ?ゴールするんか?」など微妙な感じではありましたが、回を重ねるごとに人気も高まり、演出の効果も抜群で誰もが注目する企画になりました。
最後はロンドンのトラファルガー広場から生中継で全国民がテレビの前にかじりつき猿岩石のゴールを見守るという社会現象にまで発展しました。
結果として、猿岩石はわずか1年で国民的大スターへと躍り出ることになります。その後、CDを出せば「白い雲のように」はミリオンセラー、書籍を出せば飛ぶように売れるという大人気芸能人へとなりました。
しかしながら、いきなり売れてしまった為、本来の実力との差が激しく流行りが去ると共に誰も猿岩石を応援しなくなりました(当時世間は「しょせんヒッチハイクで売れただけの実力無し芸人と揶揄していました」)。
後から確実に場数を踏んだ同期の芸人は売れていき、ちやほやしていた芸能関係者は去っていきました。それから約7年間もの間ロクに仕事も無く収入はゼロという、正に地獄のような生活を送ることになるのです。
そんな中、変わらず接してくれた数少ない芸能人で、しかも手を差し伸べ続けてくれたのが、他ならぬ上島竜兵さんだったのです。
不遇時代の有吉を支えたのは上島竜兵!
いくら同じ事務所の先輩とはいえ、いわゆる「一発屋芸人」のような有吉さんに恩を売ったところで何のメリットもありません。
上島さんはただ純粋に有吉さんを助けたのです。自身が主催する「竜兵会」にも呼び出し、飲み代やタクシー代に加えて毎回5千円を渡していたそうです。
更には月30万円の仕送りもしていたとか。
当時、2人は毎日のように一緒に過ごしていたそうで、上島さんは食事や金銭面でも有吉さんの面倒を見ていました。さらにそれだけでなく、上島さんは『月30万やるから、仕事せずにいつも俺のそばにいてくれ』と有吉さんの存在を必要としていました。そういった励ましがあったからこそ、有吉さんは踏ん張ることができたのです」(前出・芸能プロ関係者)
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結果として、有吉さんはこの過去の栄光に引きずられた地獄のような生活の中、金銭的だけでなく精神的にも支えられ、他の芸人との交流も深めることができました。当時、一発屋の有吉さんを良く思わない芸人も多かったのですが、上島さんの仲介で打ち解けていけたそうです。
有吉さんは、「この会があったから、芸人をやめずにいられた」とか、「上島さんがいなかったらとっくに野垂れ死んでますよ」と感謝を述べていました。
では、なぜ上島さんはこんなにも有吉さんを支えたのでしょうか?
上島竜兵はメリットゼロでもなぜ有吉弘行を支えたのか?
同じ事務所の先輩と後輩、かわいい後輩を助けたい、単純に好きだったなど色々あるとは思いますが、上島さんが有吉さんに自分と重ねる部分があったのではないかと思われます。
ダチョウ倶楽部といえば、近年は鉄板のギャクと期待通りのネタを披露する理想的なお笑いトリオと言われ、テレビやイベントに欠かせない存在にまでなりました。
しかしその道のりは決して平たんなものではありませんでした。
1985年に4人で結成した「ダチョウ倶楽部」でしたが、1987年に方向性の違いからなんとリーダーの「南部寅太(なんぶとらた)」さんが脱退しました(彼は後に、南部虎弾と名前を変え、あの「電撃ネットワーク」を結成します)。
主力が抜けても3人で頑張り、1990年代前半はお笑い「第三世代」の一角とも言われるぐらいになり、冠番組も任せられます。
しかし、一過性の人気で実力が伴わず、番組はグダグダでした。筆者はリアタイで見ていたので、人気が出てきていたダチョウ俱楽部がやる番組をいうことで見てましたが、ひどい惨状でした。
それから番組のMCという花形には二度と呼ばれず不遇の時代を過ごします。
同期ともいえる、ウッチャンナンチャンや、同世代のダウンタウンがその後大人気になっていくのを傍目にどんな気持ちだったでしょうか・・・。
その後、ビートたけしさんの番組で熱湯風呂やアツアツおでんなど、とても一流芸人がするとは思えない低次元の仕事をこなすようになります。最初は引いていた視聴者も、それが何度も何度も続くといい意味でのマンネリとなり、それがいつしか鉄板ギャグへと昇華されました。その後、「リアクション芸」と評価されるようになったのです。
また、仕事がほとんどなかったダチョウ俱楽部を志村けんさんが自分の番組に起用したのも復活のカギでした。お約束のギャグをするという当時の風潮ではなかったのですが、これも長年続けていくことで評価が高まっていったのです。
上島さんはこのように、ブームで大人気から冠番組のMC、そして打ち切り仕事激減、恩人たちのおかげで復活・パワーアップという人生を歩んできたので、有吉さんにも並々ならぬ思いがあったのでしょう。
現に、上島さんは「有吉は猫だと思っていたら虎だったと」最大級の評価を述べています。
上島竜兵と有吉弘行の仲良しが伝わる様々なエピソード
上島竜兵さんの還暦祝いに「オメガの腕時計」をプレゼント
有吉弘行さんは、2021年1月20日に還暦を迎えられた上島竜兵さんになんとオメガの腕時計をプレゼントされました。
これは正確には「オメガ スピードマスター レーシング コーアクション クロノグラフ 40MM」というモデルで、価格は約41万円ぐらいします(Rakuten Bic 価格)。
文字盤は赤色ですが、これは還暦には赤いちゃんちゃんこを送るのが古くからの習わしで(60年で1週まわるので赤ちゃんに戻るから)、有吉弘行さんの粋な計らいです。
上島竜兵さんはこの腕時計を非常に大切にしていて、熱湯風呂やリアクション芸以外の時は必ず腕につけているそうです。
ご本人が以下のように言ってましたね。
上島さんは「これはね、大切な人からいただいたんです。お風呂とかリアクションを取るときとかは、時計をしないけどさ。それ以外の番組で『外せないな』っていうときは、この時計を大切に着けてます。有吉の実力が宿るようにってね。いちいち箱の中にちゃんと入れて(就寝時は)枕元に置いてますよ。これは言うのは恥ずかしいんですけど、僕にとっての宝物ですよ」と、感謝していた。
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上島竜兵が馬鹿にされた時、有吉弘行がブチ切れた!
有吉弘行さんは元々柔道をやっており実は武闘派でも有名です。そんな有吉弘行さんが、2020年12月21日放送の自身の番組「マツコ&有吉かりそめ天国」(テレビ朝日)で、人生最後のケンカを語っていました。
毒舌キャラで再ブレイクし、売れるようになってからは以前のように切れて手を出すことは無いですが、上島竜兵さんが馬鹿にされた時には怒りのスイッチが入りキレるそうです。
実際に、飲食店でガラの悪い連中(いわゆるチンピラ)に上島竜兵さんのことを馬鹿にされた際には、手に持っていったガラス瓶を叩きつけたそうです。別の手にはスマホを持っていつでも警察を呼べるようにしていたところは冷静ですね。
元々、有吉弘行さんは武闘派なので、相手もひるんだことでしょう。結局は警察沙汰にはならなかったそうです。
上島竜兵には、夏目三久との結婚を報告していた!
みなさんも覚えているかと思いますが、2016年8月24日に夏目三久さんが妊娠し、有吉弘行さんと結婚したという報道が流れました。
しかし、その日のうちに「誤報」であったと修正報道が入り、その後この話題はタブー視されていました(タブー視の理由についてはここでは割愛します)。
そしてその騒動から5年後に二人は本当に結婚されました。
妊娠については信憑性も低く、結婚については間違いでしたが、二人が交際していたことは事実だったでしょう(番組内での二人の雰囲気は異常でしたから)。
この5年間の交際は超極秘で、結婚についても最重要機密とまで言われていたのでほとんどの人には秘密でした。
ただ、有吉弘行さんは上島竜兵さんには報告していたのです。
上島竜兵ラジオで「志村けんが呼んでる」と話をする
有吉弘行さんと上島竜兵さんがラジオで共演した際には、以下のような会話をしていました。
志村さんが亡くなってもう一年半になりますけれども。
なんかもう呼んでんじゃないですか、志村さん寂しくて。
竜ちゃん寂しいよって、天国で言っているんじゃないんですかね。
いやあ~、それでも俺の前に大吾を呼ぶでしょ。
いやでも大吾はまだちょっと若いからね。
志村さんが大吾を「ちょっとこっちこいよ」とは言わないでしょ。
言わないし、大吾は大吾の運があるからな〜。
志村さん絶対天国から、大吾まだまだ頑張れよ。
竜ちゃん、そろそろ俺寂しいよって言ってるよ。
はっきり言うと、やだよ俺。ヤダヤダ絶対やだ。
もし死んだとしても呼ばれて死にたくないね。やだ。
俺は尊敬はしているけど、そういうので呼ばれてとかは嫌だね。
ちょっとでも長生きしたい。
こんな会話をしていました。上島竜兵さんは志村けんさんを尊敬し、亡くなられてからは非常に意気消沈していましたが、それを励ますような有吉弘行さんの毒舌トーク。そして、上島竜兵さんも「ちょっとでも長生きしたい。」とおっしゃっていたのですが・・・。
有吉弘行、上島竜兵への追悼曲をラジオで流す・・・
2022年5月15日、有吉弘行さんはご自身がパーソナリティーを務めるラジオ番組「有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER」(JFN系/毎週日曜、午後8時)にて、5月11日に61歳で亡くなった上島竜兵さんが好きだった中島みゆきの「ホームにて」を流しました。
感情をあまり見せない有吉弘行さんですが、この日の放送では「なんか悲しいな、やっぱり」と声を震わせながら語っていたそうです。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は、「上島竜兵と有吉弘行は仲良しの理由は?様々なエピソード:還暦時計、ラジオで志村けん、「ホームにて」」をご紹介させて頂きました。
同じ事務所の先輩・後輩を越えた、親子のような兄弟のような本当の仲良しだったお二人・・・。
上島竜兵さんのご冥福をお祈りすると共に、有吉弘行さんも頑張ってください・・・。